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奨励会という制度が棋士になり勝つことによって金を得、生活権を得るための、ただそれだけのための競争だとしたら何とむなしいものだろうか。
将棋は厳しくはない。
本当は優しいものなのである。
もちろん制度は厳しくて、そして競争は激しい。しかし、結局のところ将棋は人間に何かを与え続けるだけで決して何も奪いはしない。
将棋にせよ、尺八にせよ、プロになり広く活躍するのは大変なことです。
そしてまた、若いうちはとかくお金を得てプロとして認められることや、大舞台にたちメディア露出するなどの華々しい活躍を夢見がちです。
俺もそうでした。しかし歳をとるごとに、自分のできること、できないことがはっきりするうちに、少しずつ考え方が変わってきました。
「偉い先生に声をかけてもらえる」「格式のある大舞台にたつ」「多くのファンや弟子を得る」という一般的な成功像にはどうやら、俺はいけない。
その挫折感を経た後に、ちょっと俯瞰してみると、じゃあ、それだけが成功なのか、という疑問が残る。
そもそもまず自分が一番大切したいことは「自分自身が豊かな気持ちになること」。そのために一番大切な要素は「自分の演奏が誰かを豊かにすること」。そこから考えると大舞台やメディア露出という活躍ばかりが成功ではないと気付くようになりました。
それで去年、俺の技術でも充分に演奏を楽しんでもらえるような場や環境で、何度も演奏をしてみました(具体的には地域の小さな公共施設とか老人ホーム)。
やって気づいたことは、今の俺でできることが沢山あるということ。積極性と主体性をもってすれば、自分自身も楽しいということ。できないことを認め、できることを真剣にやればいいということ。
俺は17年前に上京して、自分の技術や才能が大したことはないと気付き、それからずっと自己否定を繰り返してました。練習もしたけど、できないことばかりで、役に立たない三流演奏家だと思っていました。尺八を人前で吹くことにずっと自信がなかったし、演奏するのが嫌な時期も結構長かった。
でも、ほんとに少しずつなんですが、去年小さな舞台を大切にしてみて、尺八は俺を見捨ててなかったということに気づくようになりました。尺八は俺に音楽を通して、多くの豊かさや幸せになるための道を残してくれていたのではないかと考えるようになりました。音楽や尺八で食えるようにならなかったけど、そういった成功とは関係なく、音楽をする価値があるということに気づけるようになりました。
冒頭に引用した文章は大崎善生の「将棋の子」というノンフィクションです。
将棋のプロを目指すも、負けて挫折していったものたちの、その後の物語。
たとえプロになれなくても食えなくても、尺八も将棋も、変わらずそこにあるという単純な事実。そして、尺八も将棋も、人に生きる勇気を与え続け、何も奪っていかないということ。
去年はそんなことに気づいた一年でした。